せっかく建物に入ったというのに、建物の入口も中の雰囲気も飛び越して、壁一面に積まれた謄写版に引き込まれた。
こちらは、清掃液と書いてある。小学校の時、先生がマニキュア塗るみたいに文字にぬってたの覚えてる。
ハンドルがついてるから手動だね。(文集作りのお手伝いでやったかな?もう自動だったかな?)
まるで、マッチ箱のように色々なデザインがある。
ガリ版で印刷された様々なものが、展示されていたが、ケース越しなので写してないけど、サザエさんの台本も平成の半ばぐらいはガリ版印刷だった。
展示物の保存(日光が入らないように?)の為か、雨戸が締め切られていた。
日本家屋の廊下の先を曲がると洋館につながっていた。
2階の部屋ではガリ版作家さん達の展示がされていた。
再び日本家屋の方へ戻ってきました。
ちょこっと引用
明治期のオフィス革命は、激烈で、文書作成に数百年使用してきた筆はペンにとって代わり、大福帳は洋式帳簿に替わった。
事務処理も煩雑になり、多くの複写を必要とする仕事が増えるばかりであった。
当時日本で行われていた簡易印刷はコンニャク版印刷があったが、多くて20枚の印刷が限界で、企業や役所・学校ではより質の高い簡易印刷が様々な活動において強く求められていた。
同文を一括して印刷できる簡易な印刷方法の必要性を痛感していた堀井父子は1892(明治25)年頃より研究を始め、明治26年二人とも同時に職を辞し、「相携えて」開発に没入(新治郎37才、耕造 18才)
もともとは、エジソンが開発した”ミメオグラフ”という孔版印刷があったのだが、1893(明治26)年にシカゴで開催された万国博覧会視察に参加し一台を持ち帰り研究開発を重ね、1894(明治27)には父子の考案によるヤスリと鉄筆を使った日本最初の簡易印刷機が発明されたと、記されている。
視察に行ったり研究開発するのに私財をなげうって、東京神田鍛冶町に転居。事業成功後、すべてを買戻し、今はその敷地に「ガリバン伝承館」が建つ。
これらの建物は明治末期から昭和のはじめに建てられたもの。放置状態になっていたのを高齢者向け交流施設への転用を念頭に蒲生町(東近江市)が譲り受け、本家居宅、洋館を改修整備した。
この広い敷地に工場があったと勘違いしていた。敷地内に蔵が点在する旧家ってどんな感じだったのだろう。旧家って横溝正史のせかい感しか思い浮かばない。
ということで、どちらかというと、この敷地内の栄枯盛衰に興味を持ったのでした。
次回行く機会があれば、ガリ版印刷体験を予約して、しっかり下書きを用意して行こう。